結婚・愛
愛の要素

第三の要素

愛の第三の要素、それはあまりにもしばしば等閑に付されるのであるが、それが成長するものであるということである。愛は、部分的な完成や過去の完全では決して満足できな.い。このことも、親子の関係においてだれでも認めるところである。母親はその赤ん坊を完全に愛するかも知れない。しかし子供が成長するにつれて愛も成長する。人格の発達と経験の累積に伴って愛も成長する。それは静止することができない。

もし成長しないなら、それは萎縮する。そして愛が萎縮することは、われわれには挫折と感ぜられる。またわれわれは、現代の結婚観の多くが、次のような臆測 --というのはそれが系統立った信念ではないから-- によって曇らされていることをみとめなければならない。

すなわちそれは、愛は不安定な動揺しやすい一時的なもので、恋愛や結婚の最初の歓喜が過ぎ去ると、そこには忍耐と常識によってのみ辛うじて存続しうる単調な生活の荒涼たる砂漠が残るという臆説である(常識は、それ自体においてはもはや神秘的でも強固でもない共同生活に、それにもかかわらずなお社会や子供たちのために存続させるべく努力する価値のあることを認めるのである)。

不思議な魅力は消え去るかも知れないがーそれとても、多くの人は不必要に捨て去るのであるi、愛は単なる魅力よりも偉大で、力や永続性を得るために魅力の援助を必要とすることはない。実際の探険において、勝利において雨愛の役割は常に魅力以上である。

そこで結婚は、男女がかかる種類の被造物なるがゆえに存在するようになり、最も強力な最も永続的な制度となった。われわれは、愛するがゆえに結婚し、結婚の中に最も真実な自己の最も完全な表現を見出す。またわれわれは結婚するがゆえに、最上の学校において、生活を年年充実させ完成させるところの自制や分与、共有、成長等の教えを学びつつ愛するのである。

そこには多くの失敗があった。いかなる成功もおそらくは完全でなかったろう。さらにこれから先も幾多の失敗があるであろう。しかし、成功のはかりは、習慣の持続性と、愛、歓喜および真の結婚によって人類に解放された自由の発展的な記録である。

もちろん現代においては、恋愛および結婚の習慣について答を要求するところの問題が、大なり小なり無数に存在する。それは、各国各階級によって異なる。このように急激な変化のある、心理学上・生物学上、新知識の進んだ、新しい貧富の差や教育の普及、婦人の解放などの存在する時代には、われわれの制度や法律にも再検討が加えられ、根本的な批判が与えられる。

それは避け得ないことでもあり当然でもあるゆ今日夫婦が結婚について反省する場合は、先祖の習慣が参考になることは、過去何世紀における場合よりも少ない。家族の大小、制限の権利および方法、相続の責任、生活の正当な標準ーこれらが皆問題になる。この混乱に直面する時、キリスト者は最も強い立場に立つのである。

キリスト者は愛の性質を検討し、その結果に信頼することができる。というのは、キリスト者こそ、愛なる御自身を顕示し給うた神を信ずるからである。彼は、この愛の意味を、軟弱にまたは表面的に取る危険が他の人の場合よりも少ない。なぜなら、彼は神の御子を十字架に導いたのが愛であったことを知っていたからである。彼は自分の子供を得る可能性を、彼と同じ信仰を持たない人とは全く違った風に考える。

なぜなら、彼は、神が彼ら(子供ら)にいかなる人間も子供らに与え得ない信仰や愛や平和の最も偉大な賜物を与え給うことを信じ得るからである。彼が結婚や家庭を、御国を建設する神のわざとして受け取るとき、自分自身にたいする、また妻や子供にたいする態度は微妙に変り、予想以上に強められている。自分がなしつつあることを理解するために、彼は愛の道を学ぽうと努めるであろう。学ぶところを実行する力として、彼は宇宙のあらゆる資源、すなわち聖霊の限りなき力をもっているのである。